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2006(来日20周年記念)

2006年は1986年に来日してちょうど20年という節目の年でした。この20年間、苦しさに泣いた日もあり、逃げ帰ることを考えたことも多々ありました。多くの日本のみなさま方のご支援をいただき、それが心の支えになり、さまざまな困難を乗り越えることができました。音楽の研鑽を日本でできたこと、そして音楽活動を通じて人々との交流の輪を広げられたこと、本当によかったと、心からただただ感謝の気持ちです。

お世話になった皆様からよせられたメッセージをここに掲載させていただき、お礼の気持ちとさせていただきますと共に、今後の音楽活動の糧とさせていただきます。
どうもありがとうございました。             劉 薇

佐川 幸子 様

 15、6年前、私の子供たちの通う小学校に演奏とお話に来て下さった時が、思えば薇さんとの出会いでした。その後縁あって薇さんの弟さんの剛さんに子供たちの勉強をみてもらうことになり、私も沢山のことを学ばせてもらいました。特にご姉弟のお互いを思いやる気持ちの強さです。剛さんは薇さんの演奏会の日程を必ず知らせ、是非来て下さいと言われるし、薇さんは弟が世話になるからと、我が家に何くれとなく気を配られる。お二人ともまだ20代で、異国にあって自分のことで手一杯でしたでしょうに。この支え合いは、それぞれが家庭をもち、日本にしっかり根を張られた今も変わらず続いています。

 さて、2000年秋、カーネギーホール出演のため薇さんが渡米された時のこと、演奏会は数日後に迫っているのにアメリカの入国ビザがおりず、薇さんはすぐにも発てるよう荷物をまとめ、航空会社のご好意で航空券を保留にしてもらいながらアメリカ大使館に日参していました。何としてもアメリカで馬思聡が弾きたい。そのためのリハーサルもしたい。それなのに行かれない。どれほどの焦燥であったことか。やがて招聘元が上院議員を動かし、「この人の入国に関しては私が責任をもつ」との手紙を内務省宛に出してもらうことができたのです。
たまたま薇さんの大使館詣でにつき合い、窮状を目の当たりにしながら何の力にもなれないでいた私は、この手紙のコピーを薇さんから見せられた時、上院議員の影響力があれば…!と、パッと光が射した思いがしました。果たして直後にビザはおり、大使館を出ながら薇さんと抱き合って嬉し涙にくれました。渡米後の活躍は皆様ご存じのとおりです。普通ならとうに諦めるところを粘りに粘った薇さんの情熱が、あらゆる問題を乗り越えさせたことは間違いありません。

 来日20年、それ以来、いや恐らくそれ以前から、物事に200%の力で当たってきた薇さん。これからは時には力を抜いて、人生の緩急を楽しみながら、ますます円熟した演奏を聴かせて下さったら、こんなに嬉しいことはありません。薇さん、ありがとう!

大河内 恒 様

 私は89年から91年まで中国西安市の日中合弁会社に勤務していた。趣味のヴァイオリンを通して西安音楽学院の卒業生と付き合いがあった。私が帰任するに当たって友人の一人から、当時既に日本に留学していた、同学院OBの劉薇さんを紹介してもらった。
 帰国後、劉さんに初めて会ったのは92年か3年のことと思う。非常な努力家であり、寸暇を惜しんで研究と練習に励んでいた。演奏会にはいつもチーちゃんが来ていて,ほほえましくもあり、大変だなあとも思っていた。劉さんのお役に少しでも立てればと思って、他の方々とも一緒に応援活動したのは、何と言っても99年の日経新聞文化欄への記事の掲載である。基本的には劉さんが日経記者のインタビューを受け、その内容が日経でも特別に人気のある同欄をかざったのである。

  私の役目は二つであった。
(1)日経さんに何とか劉さんに興味を持って貰うこと 
(2)劉さんに自分のアピールポイントを紙に書いて纏めさせること
(1)は友人の助力があって何とか道がつき、(2)については文化大革命時代に西洋音楽を目指した劉さんとご両親の苦労、馬思聡との関わり、音楽博士という三つの内容で準備した。結果はよかったと喜んでいる。
その後私は、紀尾井ホールでの演奏会の準備応援に参加したくらいで後援会員としての役目を全く果たしていない。にもかかわらず、私にもホームページへの寄稿を申し付けられたのは、2001年ごろまでは演奏会を聴きにゆき自分の勝手な意見をいわせていただいていたからであろう。劉さんは素人の私の意見を参考になると喜んで下さった。とても懐の深い人だと思っている。

 そこでこの欄をお借りして、私の劉さんに対する期待を率直に述べる。
(1)苦労話は音楽家として開いた花の中にほのかに匂う程度がよい。
(2)中国に生まれた人として馬思聡の音楽を大切にするのは大賛成。
 しかし、馬思聡だけの音楽家にはならないで欲しい。
(3)とくに味わいの深い馬思聡の小品を特徴としながら、世界の名曲でも聴衆を感銘させる芸術家になってほしい。

山本 千鶴子 様

 劉薇さんのヴァイオリンを知ってから、機会あるごとに演奏を聞かせてもらってきました。素晴らしい音楽をありがとうございます。
 ご縁があったのでしょうか。親しくさせていただくようになりましたが、もうひとつ劉薇さんとの出会いに思いがけないものを感じています。「バラーダ」です。

 ルーマニアの話を聞く集まりがありました。機会を得て、ルーマニアからの客員教授であるガブリエラさんを囲み、ある日の午後、彼女の故国について学びました。劉薇さんと知り合う少し前です。集まりの場には、ヴァイオリンの切々とした調べが流れていました。ガブリエラさんは愛おしそうに聴き入っていました。その曲を初めて聞く私に、いろいろと語ってくれました。「バラーダ」という曲であること、19世紀のチプリアン・ポルムベスクの作品であること、彼はウィーンで学んだこと、また政治犯として捕らえられたことがあること、そのような経歴の中で国を想い作曲された「バラーダ」。
 100年余を経ても、この曲がルーマニアの人々に愛され続け、特別な曲であることが、ガブリエラさんの話から、容易に察せられました。初めて聞いたその時以来、心がすすり泣くように響く「バラーダ」は私にとって忘れられない曲となりました。この曲が「望郷のバラード」として演奏されていることを知り、CDを買い求め、幾度も聞きました。そしてその後、劉薇さんと知り合ったのです。

 「バラーダ」が劉薇さんにとって、特別な曲であり、どのような経緯で劉薇さんに弾かれるようになったかを知った時、大きな衝撃を感じました。西洋を否定した文化大革命の中、社会主義国であるルーマニアとは接点があり、1972年に製作されたルーマニアの映画「チプリアン・ポルムベスク」が中国でも上映されたのですね。この映画で流される「バラーダ」の調べを、暗い映画館の中で、まだ中国では珍しかったテープレコーダで録音なさったお父様がくり返しくり返し、巻き戻しては聞き、聞いては巻き戻し、譜面に記されたということ。そのようにして、「バラーダ」の楽譜を劉薇さんが手に入れることができたということ。あまりにも、並大抵なことではなく、何と表現してよいかわかりません。素晴らしいお父様ですね。お父様のご努力と熱意には、月並みの言い方しかできませんが、本当に頭が下がります。

 「バラーダ」を聞くと、望郷の想いが切々と伝わってきます。「望郷のバラード」と日本では称されているのは自然のことでしょう。でも、劉薇さんと「バラーダ」のことを知ったときに、ちょっとした思いがわいてきました。1970年代前半から、劉薇さんは「バラーダ」として弾いてきたのですよね。劉薇さんにとっては「バラーダ」ではないかしら。劉薇さんには「バラーダ」として弾いて欲しいと思い始めました。でも、日本ではすでに「望郷のバラード」として知られている曲は、その名前で弾かなければならないのかしら。
 そのようなことを考えていたある日、車を走らせているときに、FMのスイッチを入れました。偶然としか言えませんが、ヴァイオリンの調べが流れてきました。曲名は「バラーダ」と紹介されました。その後で、「望郷のバラード」とも付け加えられましたけれど、そのヴァイオリニストは「バラーダ」として弾いていました。「バラーダ」なんだわ。「バラーダ」として弾いていいのだわ。家に戻ってから、ネットで調べてみました。FMの番組表に確かに「バラーダ」とありました。この曲はポルムベスクが名づけたとおり、「バラーダ」ですね。

 劉薇さん、とても嬉しいです。先日のコンサートのプログラムでは、「バラーダ」でしたね。ポルムベスクの想いが、心に響いてきました。ポルムベスクは、時空を超えて今もなお、私たちに望郷の想いを訴えています。これからも、弾き続けられる限り、私たちの心に切々とせまる「バラーダ」です。

 ヴァイオリニストとしての劉薇さんは、ステージの上で凛としています。ライフワークとしての馬思聡。そしてエネスコやポルムベスクなど東欧の作曲家による作品の数々。これからも、劉薇さんだからこその演奏を聴かせてください。私は客席から一ファンとして、楽しませてもらいたいと思っています。

浅井 一蓮 様

「美しき天才努力家・劉薇」

 娘の先生が高齢と体調不良でヴァイオリン教授をおやめになる時、「中国人女性だけど習いませんか?」と言われて習い始めたのが劉薇さんでした。今から17年前でした。娘から劉薇さんは経済的に大変苦労されているようだと聞かされて、一度家へご招待し日常生活の実情をお聞きした。こんな小娘のどこに不屈の魂が宿るのかと劉薇さんの顔をまじまじと見たことを鮮明に記憶しています。多くの人が知っておられるとおり、中国出国の時、外貨持ち出し禁止のため劉薇さんは異国の地にあって独力で生活費を稼ぎ、独力で音楽の勉強をする選択をされた。

 それ以来、ビジネスに明け暮れる中でも、いつも心に掛けて劉薇さんを見守るようになり、日に日に成長されて行くのを見ながら我が娘の成長を見るような気分にさえなっていました。東京芸大で音楽博士号を取得された時は、びっくり仰天すると同時に改めて劉薇さんの頑張りに頭の下がる思いであり、良き人を知ったと天に感謝しました。
劉薇さんとのお付き合いのお陰で音楽知らずの私が音楽に興味を持ち、少しは知識も身につき、心豊かになったことを感謝しています。中学3年の時、北海道岩見沢市の学校の体育館で岩本真理のヴァイオリン演奏を聴いて、そのヴァイオリンの音色に震えた記憶が劉薇さんとの付き合いの根拠になったのかも知れません。「山歌」、「牧歌」、「春天舞曲」など馬思聡の曲をコンピュータに入れてワークをしながら聴いていますが、何よりも精魂込めて弾く「BALADA」は私を慰め、高めてくれています。

 しかしなんと言っても、劉薇後援会懇親演奏会の定期演奏会で劉薇さんを間近にして、その身体や指の繊細な動きを見ながら聴くのが一番の歓びになっています。
 2001年夏、有志に話しかけて劉薇後援会を結成して劉薇さんを激励するとともに、劉薇さんの音楽とその生き様から計り知れない力を貰いながら生き続けるこの頃です。

 頑張れ、頑張れ、劉薇さん! 私達会員も頑張るよ!

飯島 正久 様

 劉 薇さん! いまだに私はコンサートの感激と感慨の中にいます!
 感謝は尽きません。ハレルヤ!

 だんだんに私は涙があふれてきました! ゲハルトさんが奥様のためにおくる曲を弾かれた時も、私は亡妻を想い、涙があふれました。美しい愛の曲でした。

 私の少年時代も、ちょっと昔のあなたと似通った環境事情がありました。
 それは北京から日本に帰国した時から以後、私が7歳ぐらいから10代終わり頃までです。外交官で成功した父は、ある事に怒りを感じて、外交官の職を棄てて帰国し、いきなり北海道の十勝の原野に身を投じました。
 貧しい時代でした。極限の寒さの中でした。父は私を学校に行かせませんでした。代わりに家で、私に英語ではJOHN STEWART MILLや、漢文では論語や孟子、また十八史略、聖書に法華経、観音経などを教えました。

 父は外国から持ち帰った古い(その時代には新しかった?)蓄音機(わかりますか?)を与え、英語の歌(LONGFELLOWやBrowning) など、それにタイスのmeditationや、それからユーモレスクでした。毎日私は独りで、これらを何度も何度も聞いていたんです。
 その時代、その頃の毎日を思い返しつつ、あなたの演奏を聞いていました。涙があふれたのは、その北海道十勝の生活が私の一生涯の原点であることが、八十五歳になって始めて分かってきたからです。

 広大な北海道の原野で、独りポッチでいた子供時代に、私は普遍性ということに目覚めていたのです。

 音楽もそうでしょう! 日本の音楽もある、ヨーロッパの音楽もある、中国のも日本のもありますね。でも究極の音楽には分かり合える一つのものがあるはずですね。音楽の普遍性を想うときに、あなたに出会い、そして馬先生の音楽をしったのです。

 そして、音楽の普遍性と同時に、宗教でも普遍性を見つめなければならない、と想うのです。キリスト教界でも、何百もの宗派に分かれてしまって、イエス・キリストの「福音」という一点を忘れて競っているんです。イスラム教でも、 仏教でも、宗教が普遍性を離れて、みなsectになって争っている。
 そんなことを北海道以来、教えられ、悟り、考えるようになってきたのです。

 晩年にあなたと出会った!馬先生の音楽精神も知った!これはgreatです。
 そんなことを想いながら聞き言っているうちに涙が溢れて感謝でいっぱいでした。

 あなたの音楽には、何かが感じられる!健康には充分留意なさって、必ず神様の祝福を人々に分かち合ってください。祈っています!
八ヶ岳にて

金重 淳一 様


「運命の出会い」

 劉薇さんと初めてお会いしてからまだ三年とちょっと、劉薇さんの来日20年という歳月の重さの中では殆ど意味をなさない程度のお付き合いである。そんな私がこの企画に参画するのはいささか場違いの感を否めないが、折角いただいた機会なので、劉薇さんとの出会いにまつわるエピソードのご紹介をもって務めを果たしたいと思う。

 2003年の10月半ば、まだ千葉に住んでいた私のもとに、八ヶ岳から一通の案内状が届いた。

このたび当館のホールで、ミニコンサートを開くことになりました。
<第一回 劉薇・森の人コンサート>
 ・日時:平成15年10月25日(土) 15時30分開演
 ・場所:ロッジ詩游館
 ・出演:劉薇(中国出身の女流ヴァイオリニスト)
お忙しいとは思いますが、おいでになりませんか?    「ロッジ詩游館」宍戸

 八ヶ岳南麓大泉高原(山梨県北杜市大泉町)、背後に八ヶ岳の主峰赤岳がそびえ、前方左手に富士山、右手に南アルプスの峰々を望む場所に瀟洒な山荘が建つ。2002年7月に開業した「ロッジ詩游館」である。千葉県から移住された宍戸洋之・千鶴夫妻と次男の文弥さんの三人ですべてを切り回すアットホームなペンションであるが、四季折々の美しさを見せる里山風景、清潔で快適なたたずまい、宍戸ファミリーの誠実な人柄と温かいもてなし…、一度ここに泊まった人は八ヶ岳に来ると必ず「ロッジ詩游館」を訪れるようになる。

 私もその一人であった。2002年の5月、かねて念願の終の棲家「まどい」の建設に取り掛かったが、その場所が偶々「ロッジ詩游館」の東隣であった(隣といっても間に田んぼや畑を挟んで150メートルくらい隔たっているが)。建設中は毎月のように現地に足を運んでいたので、11月に初めて「ロッジ詩游館」に泊まって以来「まどい」が完成する翌2003年4月まで何度か泊めてもらっているうちに、宍戸夫妻と親しくお付き合いをさせていただくようになっていた。

 しかし、「第一回劉薇・森の人コンサート」については、わざわざ千葉から出掛けるかどうか正直のところ大いに迷った。完成後もちょくちょく訪れていた「まどい」には、10月上旬に四日間滞在してきたばかりであった。劉薇さんというヴァイオリニストは全く知らなかった し、何よりも悪名高き首都高速を走る苦痛を考えると、「ゴメンナサイ!今回はパスさせていただきます」というのが本音であった。だが、宍戸夫妻が多忙な本業の傍ら、地域の文化起しに立ち上がろうとしているからには何としても応援に駆けつけなければ、との思いが勝った。

 10月25日朝5時に千葉をスタートし、八ヶ岳に向かった。早朝であれば、談合坂の休憩を入れても3時間弱で到着する。この日も8時前には「まどい」に着いた。気温は低めであったが、明るい陽射しの中で、コスモスやススキがさやさやと揺れていた。

 窓という窓をすべて開け放って風通しをしながら、家の中の片付けなどをしているうちに時計は15時を廻った。歩いて「ロッジ詩游館」へ。宍戸さんの笑顔に迎えられて中へ入る。いつもはテーブルと椅子が整然と並んでいるホール(兼食堂)がコンサート会場である。全面ガ ラス張りになっている明るい南側のスペースに簡単なステージがしつらえられていた。ステージに向かって幾重にも扇形に椅子が並べられ、前半分の席は既に埋まっている。ちょうど真ん中あたりの空いた席に腰を下ろした。

 ほどなく満席になった。全部で50人くらいであろうか、宍戸さん夫妻以外に面識のある人はいない。間もなく開演が告げられた。簡単な主催者挨拶のあと、司会者の紹介に続き拍手に迎えられてヴァイオリンを手にした劉薇さんが登場した。思ったより小柄であるが、さすがにプロの演奏家、堂々たる物腰である。驚いたのは、劉薇さんの挨拶。手にしたマイクから流れてきたのは流暢で美しい日本語であった。爽やかで歯切れの良い語り口の中に、豊かな感性と誠実な人柄がにじむ。にこやかな自己紹介も終わり、早速演奏が始まった。伴奏無しのソロ演奏で、プログラムには、中国の曲と日本や西洋の馴染み深い小曲が並んでいた。
 馬思聡の「牧歌」、「山歌」に始まった演奏は、劉薇さんの軽妙なトークを交えながら進み、照明を抑えたホールの高い天井にミューズが舞い始める。逆光のため弾き手の表情はよく見えないが、しなやかにあるいはダイナミックに動くシルエットから生み出された音が直接身体に 伝わって来る。何と艶やかで力強い音色だろう!何と深い表現だろう!シューマン、フォーレ、マスネ、バッハ…。やがて身も心も日常の緊張から解き放たれ、忘我の境地に入る。
 どのくらいの時間が経ったのであろうか?閉じていた眼をふと開き、何気なく正面を見やった途端息を呑んだ。ガラス越しの空を美しい夕映えが染めているではないか!芸術と自然が織りなす至高の美に陶然としながら、この時私はある決心をしたのである。

 その頃、61歳になった私は人生の最終ステージをどう迎えるか思い悩んでいた。
 会社の方は、6月に第一線を退いて閑職ポストにまわっていたし、終の棲家「まどい」も完成していたから、念願の「八ヶ岳暮らし」に踏み切るための基本条件は整いつつあった。亡妻との約束を果たす意味でも、また少しでも体力のあるうちに新しい生活の基盤作りに取り掛かるという点からも実行は早い方が望ましかった。しかし、一方で、両親と亡妻が眠っている郷里の墓の移転や千葉の家の売却など厄介な問題を片付けなければならなかったし、移住後の生活に対する不安も募っていた。年金収入だけでやっていけるのか?趣味やボランテイア中心の生活で生きがいを維持出来るのか?知らない土地で新しい友人関係をつくれるのか? 就任したばかりの役職任期は4年あったから、このままじっとしていれば65歳までは安穏な生活を続けられるのに、という気持ちも捨て切れなかった。

 実はこの日も、この問題について堂々巡りの自問自答を繰り返しながら車を走らせ、もやもやした気持を抱えたままコンサートに臨んだのであった。

 が、劉薇さんの演奏を聴いているうちに、次第にもやもやが拭い去られ、そして夕映えを眼にした瞬間、あたかも天啓を得たかのように心が決まったのである。「美しい自然と音楽、そして喜びを共有できる仲間。この素晴らしい土地で生きよう!」と。

 それから1年8カ月後の2005年6月、私は任期半ばで職を辞し、40年にわたるサラリーマン生活にピリオドを打った。Xデーすなわち八ヶ岳転居を三か月後と定め、退職、年金受給、転居など新生活への移行にまつわる諸手続き、家の売却、永年の生活で積み上がった膨大なガラクタの始末、引越しの手配と荷造りなどなどに明け暮れた。今考えても、よくも身体を壊さずに乗り切ったものだと思う。(墓の移転だけは今年の秋までずれ込んだが)
 そして、2005年10月5日、遂に私は「八ヶ岳」に根を下ろしたのである。

 あれから一年が過ぎた。
 今、ワープロの手を休めて、窓の彼方に白く輝く八ヶ岳の主峰赤岳を眺めながら一年間を振り返るとき、充実した幸せな日々に感謝の念がこみ上げて来る。7月8日の「劉薇・八ヶ岳コンサート」実行委員会の一員として走り回った毎日、その中でいろいろな経験をし、いろんな人達に接した。実行委員会の仲間、役所の人々、学校の先生方、新聞やラジオ・テレビ局のスタッフさらにはチケットの販売に協力していただいた地元の人達…、実に様々な人々との交わりの中で、多くの出会いが生まれ、貴重な友人を得ることが出来た。コンサート大成功というご褒美もいただいた。

 すべては2003年10月25日の「運命の出会い」に遡る。あの日劉薇さんと出会い、劉薇さんの音楽と出会ったことによって、私の人生は大きく方向付けられ、限りない「出会いの連鎖」に恵まれることとなった。もし「ロッジ詩游館」のコンサートに参加していなかったら、未だに千葉でうじうじしているかも知れない。

 「劉薇後援会」の会員であり劉薇さんの熱心な支援者でもある飯島正久先生(横浜・港キリスト教会の牧師として、あるいは聖書研究家・著作家として85歳の現在も八ヶ岳を拠点にご活躍中)が、あるところで「出会い」について語っておられる(飯島先生、勝手に抜粋してご紹介する失礼をお許し下さい)。

 出会いというのは偶然のようでありながら必然的なものです。自分の中に求めが無ければ、希望が無ければ、出会わない。行き会っても出会いにならず流産してしまいます。

 出会いというのは、不思議なひらめき、あるいは暗示、あるいは誘導…、何か良い言葉が無いですけど。そして私達を次の幸せに、本当の意味での喜びに、希望に導いて行くのですね。

 出会いは、誰にも平等に与えられているものなんです。だから、私達が謙遜であれば出会いがある、希望について志があれば出会いがある、私達は絶望していても慰めを求めて謙遜になっていれば必ず出会いがある。その出会いが、私達の人生を実らせるんだなあと、しみじみ思います…  (2006.3.26 於:港キリスト教会)

 もし、劉薇さんとの出会いが、必然的なものであったとしたら、私にとってこれほど幸せなことは無い。「運命の出会い」に感謝しながら、劉薇さんの後援活動を通じて精一杯のご恩返しをして行きたいと思っている。

 最後に、「運命の出会い」のきっかけを作っていただいた宍戸さんにも心から感謝申し上げなければならない。そして、「ロッジ詩游館・劉薇コンサート」が"八ヶ岳における人と人の、あるいは人と音楽の出会いの場"として、さらに発展していくことを願ってやまない。

岡本 由利子 様

「二十年の歳月」

 ウェイさんと私のおつき合いは約20年になる。きっかけは娘のヴァイオリンの先生を探していた折、まだ来日して日も浅いウェイさんを紹介された事に始まる。しかし私はとまどった。中国?特に国交回復前の中国は暗く閉ざされており、私は一生この国の人とおつき合いはない位に思っていたので、恐る恐るという思いでウェイさんに会った。
 「私がヴァイオリンの持ち方、きちんと教える。」少々たどたどしい日本語だがキッパリと言って、それから十日間毎日我が家にいらした。六才の娘はお稽古より遊びたい盛り。けれどウェイさんの突き詰めた様な眼差しと、決して半端な事を許さない気迫に、子供なりに何かを感じたのだろうか、大きく眼を見開いて一言一言を体で受けとめていたのを、昨日の事の様に思い出す。
 ウェイさん、「キレイ事ばかりでなくていいよ。」と仰るので、印象的なエピソードを一つ。
 生徒も増え、全員でコンサートをやる事になり、親も総出で分担し無事終了。打ち上げの茶会に親達がルンルン気分で集まると、そこには怖い顔のウェイさんが・・・完璧主義の彼女には手順等で多々許せない事があったらしい。座はシーンとなり不愉快そうな顔のお父様も。私は意を決して言った。「まずは御苦労様、ありがとうを言わないとダメ。」?今では昔話だが、私は破門も覚悟の上だった。
 だがウェイさんは一方で人なつっこく「あはは」とよく笑う楽しい人である。娘はレッスンが終ると、中国の珍しいお菓子を口に含みながら帰って来たし、親子共々手料理を御馳走になる事もあった。忙しくても手作りする中国の食に対する豊かさ、食文化には感動する。
 昨晩私はウェイさんとウィーンのピアニストの共演するコンサートに行った。二つ前の列に25才に成長した娘が演奏に聴き入っていて、走馬灯の様に20年の歳月が脳裏を駆け巡った。
 ヴァイオリンの音色は歳月と共に変化している様に思う。昨晩の低く強いヴァイオリンの音色は、私にはスッと引き抜いた日本刀の様にも感じられた。
 新たな出会いは新境地をも作り出していく。例えば伴奏者一つをとっても、繊細な感覚で自らを一歩抑えヴァイオリニストの良さを引き出すピアニストと、律動間とでも言ったらいいのだろうか、自ら呼びかけヴァイオリニストとの呼応を楽しむピアニストの有り方、それぞれに本当に素晴らしい。それはどこかワールドカップにも似ていて、国民性やスタイルが違い、本物がぶつかり合う楽しさだ。
 ウェイさんの周りには今後もサポートする方が増え、国境を越え未知の世界が広がるだろう。
 最後に今や共に子を持つ親となり、いろいろな局面に悩み直面する事も増えた。私が自分なりの夢を語ると、「とにかく少しずつやってみようよ、きっとそれはかなって行くから。」決して諦めない粘り強いウェイさんの言葉に励まされる。

高木 健 様

「劉さんへの手紙」

 劉さん、来日してからもう20年になるのですね。
 私があなたに初めてお会いしたのは、来日してから2年ほどしての、代々木でのティーサロンコンサートだと思います。茶道の地崎先生から、「中国からの留学生で、日本の文化に触れたいというので、私が茶道を教えることとなった。ヴァイオリニストのコンサートがあるから行かない?」といわれて、家内と娘の3人で、先生やお弟子さんたちと行きました。手元にあるその時のプログラムには、演奏曲目「牧歌、思郷曲、クライスラー、ドビッシー小作品、その他」とあります。はるか昔のことですが、あなたが美しい、懐かしい感じのする曲を一生懸命演奏していたのを覚えています。
 その後何年間か、あなたは茶道を習われたので、お稽古で、あるいは初釜、お茶会で度々お会いしましたね。あなたはその明るさ、素直さで皆からかわいがられ、日本語も会うたびに上手になっていくのに驚かされたものです。
 勉強などで忙しくなったからでしょう、あなたがお稽古にあまりこられなくなってからも、私たちは地崎先生から「劉さんたちはとっても苦労しているよ、でもあの人たちはしっかりしているから大丈夫だよ、本当に偉いよ」といつもきかされていました。
 あなたの演奏で印象に残っているものをひとつだけあげるなら、東京藝大での博士学位審査演奏会でしょう。私たち大勢で聴きに行きましたが、堂々とした演奏に感激しました。
 劉さん、あなたは恵まれた天分、強い意志とヴァイタリティ、明るい人柄で人の輪を大きく拡げるとともにヴァイオリニストとして、また馬思聡の研究家として次々と目標をクリアーされてきました。その活動の場も日本全国はもとより海外までおよび、各種メディアにもとりあげられています。このように人生を切りひらいてきた姿を、私は驚きと敬意をもってきました。
 今年で20年、あなたは今までの人生の半分近くを日本で過ごされたわけですが、次の20年間にはどのような展開があるのでしょうか。どうか健康にはくれぐれも注意されてご活躍下さい。そしてこれからも私たちに素晴らしい演奏を聴かせて下さい。

村井 範子 様

「劉薇さんの来日20年記念のリサイタルによせて」

 劉薇さんとはここ1O年ばかり、大変親しい間柄となっているのです。
 いま、思い出してみると、いくつかの機会の中に、フェリス女学院大学の2百人ばかり入場でぎるチャペルで、劉薇さんのお話と演奏の会を開催したことがありました。拡げられた広い中国の地図で、劉薇さんの故郷蘭州を眺め、進められていく劉薇さんのヴァイオリン学習の日々のお話は、すべて人々の心に残るものでした。隣国の中国の出来箏なのに、私どもの知識は乏しく、文化大革命(1966-1976)の時期の音楽を含めての西洋文化の激しい排斥運動の中で、続けられた劉さんのヴァイオリン学習のお話は、私たち一人ひとりに強く印象づけられました。
劉薇さんの、来日後の厳しい留学生活、日本語の習得の生活、さらにたゆまず行わねばならなかった音楽学習と研鑽の生活、それらすべてを乗り越えるには、どんなに大ぎな努カが払われたことでしょう。この勉学中、一度は疲れ果てて絶望して、故郷に逃げ帰ったという話も聞きました。しかし、じっと考え、気を取り直して再度来日し、修業を続けられたということでした。
 やがてたゆまぬ研鑛の結果は、中国の作曲家馬思聡の研究論文と、ヴァイオリン作品の数々の演奏で、東京芸術大学より博士号を取得という栄誉が生まれました。劉薇さんは、馬思聡の作品の演奏および未発表の楽譜の校訂と刊行という大仕事を当面のライフワークとして献身していらっしゃいます。
 現在の劉薇さんは、演奏活動と、ときには講演活動に多忙ですが、それに加えて、私の主宰する音楽学に基づく音楽史研究会のメンバーとしても、ヴァイオリンという楽器の歴史的研究、ヴァイオリン音楽の演奏法の研究を主題に、広くふかく研究活動に身をゆだねていらっしゃいます。最近では、私の知る限りでも、馬思聡の手書きの楽譜から数々の独秦曲の演奏をはじめとして、オーケストラとの共演でヴァイオリン協奏曲を、また2本のヴァイオリンのための無伴奏ソナタの演奏などなどをすべて初演なさっております。
 今夕は、ピアノ五重奏曲が日本初演されることになっております。来日20年の後、これからさらに新しい劉薇さんのヴァイオリニストとしての歩みがはじまることでしょう。劉薇さんのあの音楽研究への真撃な姿勢によって、演奏技法にますます磨きがかけられ、平和と自由を愛する劉薇さんの豊かな精神生活のもと、エネルギーあふれる演奏、細やかな情緒に満ちた演奏が、多くの人々、アジアの人々のみならず、今後は世界の人々を魅了するよう、輝かしいご活躍を心よりねがっております。
 村井 範子 フェリス女学院大学名誉教授(音楽学)

細川 一郎 様

「最初の出会い」

劉薇さん、来日20周年記念リサイタルを行なう由、大変嬉しく「おめでとう」と申し上げます。
さて、記念のホームページに一文との事、それでは22年前の最初の出会いを書いてみます。時は1984年夏の事、場所は香川県観音寺市民会館。西安音楽学院一行の音楽会でした。四国の青年会議所の招聘で、各地を巡演していたのです。当日は来日中の中国人、昔中国に住んでいた人、関係者、中国に興味を持っている人等で、溢れんばかりの満員で、盛況裡に終わりました。私はヴァイオリンを奏いていた白い服の可愛い姑娘に興味を持ち話しをしてみたいと思い、楽屋へ訪ねて行きました。_好!ニイハオ!と話しかけ薇さんに逢えたのですが、うまく通じず、通訳にきてもらい、やっと会話が進みました。ヴァイオリンを見て、私は"__我看看"(見せてください)、薇さんは"可以可以"(いいですよ)でヴァイオリンを受け取り、ためつ、すかしつ、ひとわたり眺めてから、ちょっと奏いてみたくなりヴァイオリンを構えると、メンデルスゾンのヴァイオリンコンチェルトの第一楽章冒頭の部分を一くさり奏いてみましたら、他の楽員が何人か集まって来て、ワイワイ、ガヤガヤと盛り上げ、今度は薇さんがコンチェルトを奏き、私もよく知っていた曲だったので、彼女の腕前はよく分かりました。
 その時、2年後東京で国際コンクールがあって、「私はそれに出られる」、国内コンクールで3位だったとか熱心に語りかけてきました。私も「それはすごい!一週間や二週間の滞在ならいつでも歓待しますからお越しください」と言いました。ところがその後、彼女の身元引受人になることまで事態は進展した。頻繁に手紙のやりとりをするようになり、お父さんとおじいさんとも便りが来ました。翌1985年、私がツアーで西安に行った時再会、丸一日彼女もそのバスに乗って、沢山話しをしました。この時から根負けしたような形で身元引受人となり、日本留学となったのです。学校選びがやっと終われば、次に入国ビザがおりないとか本当に大勢の方々のお世話になりました。これで最初の出会い」という題目をひと段落とさせていただきます。
 皆様いつも薇さんの為にご援助、ご協力ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。

細川 祥恵 様


「もう20年もたったのかと、感無量です!」

 劉さんが、我が家にやって来たのは、23才、七月中旬の暑い日でした。私もまだ若かったなあと、当時のバタバタ劇を想い出します。彼女がどれ程の才能の持ち主であり、努力家であるかと言う事は皆様充分にご存知のことなので、私は来日前後の事を書いてみたいと思います。
 共産主義体制の中で、産れ育ち、民主主義、自由経済の日本へ来てとまどう事も多かったことでしょう。
 そんな中で、今でも可笑しく思い出す事の一つを記してみます。
 ある日、突然大阪芸術大学から電話があり、中国の劉さんから入学願書とテープが届いていますので、受験料3万5千円(位だったと思います)送金されたしとの事、一瞬何事?と思いましたが、さては、セッカチ娘が東京芸大がだめなら大阪芸大の発想で、しでかした事だなと思い丁寧にお断りしました。彼女には国公私立の区別がなく、日本人は皆お金持ちと思っている様子でした。
 私共としては、レベルは高く、費用は少しでも安くの気持ちで受入校さがしに奔走中でした。まずは東京芸大へお願いしたのですが、外人枠はないので、日本人と同じ条件で、受験して下さいとの事、芸大がだめなら、桐朋音大と思いそちらで、話を詰めていた頃でした。大阪芸大も宮本政雄先生と主人が、旧知の仲だったので、無料でテープ審査や相談にものって戴き、「院への入学は認めますが、細川さん2年間の学費だけでも大変だよ。」との事で、とてもじゃない額を知らされました。そんな中、彼女は早く日本へ行きたいのに受入れ先が決まらずシビレを切らした行動だったのです。先に雑誌『音楽の友』をおくっていたので、私立校の広告をみて応募した様です。海の水が塩からいのも豊浜の海で知りました。生クリームケーキという物の美味しさに驚き、観光地のところてんの高いのに怒り、等々今、想いだしても面白い事が色々とありました。桐朋、芸大とエリートコースを歩み、良い師に恵まれ、多くの方々の後援を戴き、今日ある事をとても嬉しく思っています。今後とも健康に留意し、益々のご活躍を祈念いたしております。

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