歩んできたみち



 上海の実家で、30年ぶりに父の手写し楽譜を目にした。楽譜は当時の政治風潮を反映する『人民画報』で包まれ、時代の歩みを刻まれていた。娘はきっとヴァイオリンを上手く弾いていけるとの信念一つで、6年間私のヴァイオリン練習とともに、教則本のカイザーから、パガニーニ超絶技巧のカプリスまで五線ノートに手で書き写したのであった。
 文革末期で、コピー機はもちろんなく、西洋文化全般排斥され、私も窓を締め切って、人に隠れてモーツアルトや、ベートーヴェンを聴いて練習したのだ。

 中国奥地の敦煌近くの蘭州で生まれた私は、幼い頃から人民服姿の父が弾く二胡やアコデイオを聴いて育った。そこそこ地方劇団で劇音楽でも弾けたら、「若い青年は農村へ肉体労働させる」毛沢東の政策を免れるのかもとの発想で、音楽との関わりを持ち始めたのであった。
 ある日、父が汽車2日間も乗り継いて知人を探し、ボロボロのケースに入ったヴァイオリンを手に入れ、鋸で子供用に改造し、空色のペンキーでケースを塗り変え、私に与えてくれた。毎週列車で3時間かけて習いにいった頃、距離感はあったにしても懸命に通い続けた。レッスンの日が近づくと、母も弟も協力してそのことに気持ちを向けた。車掌さんは今日も放送室で弾いたら切符はただにするよと、とにかく弾けないところを飛ばし、曲らしくつなげることが大前提であった。習うため、農作物を運ぶトラクターであろうと、あの地方で利用できる交通手段の一通りは乗ったことあったようだ。
 列車の放送マイクに向かって週一度ヴァイオリンを弾いたことで、座席を譲ってもらえた、父の世界名作ストーリーも聴けた実に有意義な時間であった。考えると12,3歳で演奏活動をしていたのかも。

 当時の父の情熱は並々ならぬものだ、小沢征爾、アイザック・スターンの歴史的訪中のニュースが流れ、中国大地を沸騰させた。 "北京へスターンを聴きにいこうよ"と、階段を上る僅かの時間も待てなく、アパートの下で叫んだ父の顔はいまだに思い出す。取材班同行したスターンの中国の旅は、後に16時間に及んだドキュメンタリー、「モーツアルトから毛沢東へ」編で、文革中閉ざされた中国の様子を世界に伝えた。スターンは人々が紅衛兵に傷つけられたボロの楽器で、感動的な演奏をしたことから、中国音楽界の時代が到来すると予言をした。スクリーンに映る音楽学生に自分の影を重ねた瞬間に、涙が大河のようにあふれた。

やがて文革が終息し、直後に私は倍率数百倍の難関を突破して音大へ入学した。文革10数年で停止した大学入試が復活され、押さえられたエネルギーが一気に集まり、中国に数えるほどしかない音大への入試は、想像に絶するほどであった。音楽家になろうとする私はこの時初めてピアノに出会い、ピアノ伴奏が鳴り出す瞬間に、緊張のあまりに心は震えた。その時のショックをいまだに忘れられない。音楽を求めた険しい道を忘れるな、必死にヴァイオリンを弾いていけ、父の話はあれからずっと耳の傍に残った。
 現在、日本を中心に各地で展開する私の演奏活動の一部に、父と娘が紡いだ決して平坦ではなかった音楽への道を、人々に伝える努力をしてきた。ヴァイオリンプラス父の姿が、音楽と同時に私の脳裏から離れることは出来なかった。

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